夜中の散歩

いじめについて考えている

つらつらと

・彼氏が来て帰ってしまってから寂しくなって不安定になった、ベタだ!

散歩したりカレー食べたりゴロゴロしている彼氏を足で踏んで遊んだり漫画読んだりして

幼児退行していた、誰も見てないからいいけど他人が見たら気持ち悪いだろうなあカップルのカップルだけ空間

というか内なる自分がオメーら気持ち悪いと言ってるのを感じる

気持ち悪くならないと気持ちよくなれないと歌った大森靖子はすごいぜ的確

・全然関係ないシリアスなことを考えていたので頭の中の整理のために書きますが

加害者は自分が加害者だという事実に自尊心が傷つかないのだろうか

→傷付く自尊心すら失っていると自分を見つめる自分の目も曇るか失うのでは

他人、まして被害者がそのつらさを汲む必要などはないけれど自分が誰かを傷付けたり差別した加害者だと気付いて傷付くプロセスは被害者だと気付いて傷付くことに匹敵するか追い越すくらいつらいんではないか

ツイレディの人々がもし正気を取り戻したら

自分の言ったことに打ちのめされるだろうな

と思い・・

・フィクションの中のキャラの役割について考えた

最近保坂和志の小説論や阿部和重を読んでいて、キャラをコマとして扱う小説の面白さを知った

あとフラナリーオコナーの小説論もう一回読みたい

犬や猫を描くとき比喩として使うな、ということこのシーンにはどういう意味があるのですか、何を示しているのですか、という質問を作者にしたらバカ、犬や猫は犬や猫だ

小説というものを使って具体物や具体的なエピソードを積んでいかないとその人は描きたいものが描けなかったから小説書いたんだろう、何を描きたかったか問われて答えられるわけがない、この小説を描きたかったとしか言えないでしょう

そのフィクションの宇宙の中に配置されたことでなんだって他の要素と絡まって意味を持つ無意味に出てくることができない?

要素に分けて解説できすぎるフィクションは

上手いのか失敗なのか

最近読んだゴトウユキコ水色の部屋が微妙だった

地獄みたいな漫画だったなー

暴力や加害欲を性と絡ませたあげく

それをなぜかロマンチックなものや高次のものだと言って持ち上げる、というような

コンテンツに構ってる余裕はない

わたしは強者じゃないし安全なところにいる人間ではないから

水色の部屋、はちょっと微妙だった

作者が、歪んだ愛について描きたかったとあとがきで書いていたことに違和感を覚えた

主人公はちゃんとまともになったねよかったね、とは思えない

母親をレイプした人間を刺すことで父殺しと自分の加害性殺しも兼ねているというストーリーは、ありか?そんなことで殺せるだろうか、力の行使の仕方がマッチョではないか?

同い年の少女と心が通じ合ったことと母親を他の男に委ねることで成長したことになったけど、彼の救済に女の存在が必要だったことはうーん

レイプした少年はどうにもならないかもねくらいね

読者に気持ちよく本を閉じてもらうために登場人物を歪めたりはしないのだなとは思った

作者が何を描きたかったなんて巻末で言葉で説明するのは野暮だ

この漫画を描きたかったのだろう