夜中の散歩

いじめについて考えている

生きたり死にかけたり生き延びたくなくなったり死にたくなくなったり

死にたくなったら電話して

死にたくなったら電話して

死にたくなったら電話して

死にたくなったら電話して

どうやったら社会の主流的な価値の外に出たことになるんだろう、自殺すら同調圧力なら死にたいと思う自分だって死にたいと思わされてるだけかもしれないし、かといってこんなひどいところを肯定できない

生き延びることを肯定しようにも生き延びようとする努力が私をみにくくして殺しにかかってくる

生き延びたいと思いすぎると生きながら死んでしまうが生きていたいと思うと死んでしまう方向に近づいてしまう

死にたいといいつつ死なないし、

いま誰かに痛みもないし消滅できるよ、やる?ってきかれたら、間違いなくやだと言う。

私の言ってる死にたい、はなんなのか

生き延びたくないが生きたいをコンパクトに言い換えると死にたいになるのか…?死にたいと言ってる間は生きたまま生き延びられる、と考えてるふしもある。(強制収容において、収容された人が自らの生殺与奪権を支配者から奪還するために、自殺願望を抱く場合がある。自殺願望が自殺の延期として機能することもあるし、自殺小説が言葉で行為を回収しちゃうぶん、自殺の抑止に役立ったりもするかもしれない。死にたくなったら電話して、の作者はその意図で自殺を描いたらしい。)つまりあまり死にたくない…というか全然死にたくない。

いつ終わるとも知れない生きてる間の持ち時間をつかって、いつ死ぬんだろうとか、生きてることにどんな意味があるのかとか四六時中考えてるのも変だ。

そんなこと考えてる間にたぶん死んでしまうし、死ぬまでになんかわかるとは思えないし、なのにそうやってえんえん考えてみないことには生きているのが難しいし。無意味だといったら全部無意味だけど意味があるといったら全部に意味があり、これはなにあれはなにと剥いて剥いて押し付けられた意味や思い込みを自分からとっぱらっていったら最終的に私もこの世もからっぽだし。

食べるのも化粧も肌ケアも美容院のカラーカット予約も、明日も明後日も生き延びてる前提があらかじめ含まれてる行為ばかりやってて、自動的に生き延びようとしているし死ぬ日にも着々近づいていってるし、体に頭が置いてかれている